普段このブログでは、特定のお客様の、具体的な個人の御名前を出して書くことはほぼないのですが、今回はちょっと記事を書かせて頂きました。
先日、大井さんが定年退職されました。
大井さんとは、北海道新聞HotMedia(旧名道新スポーツ)で発行している「週刊釣り新聞ほっかいどう」(通称つりしん)の元編集長である大井昇さんの事です。
「つりしん」の事は、北海道で釣りをする人で知らない人は恐らくほとんどいないと思います。しかし、そこで働いている人達、紙面を支えている人達がどんな人となりかを知る機会は意外とありません。弊社は基本黒子であるこれら編集スタッフの皆さんと、長い間お仕事をご一緒させて頂いているのですが、今回大井さんの退職にあたって、少しだけ思い出などを書かせて頂ければと思います。
大井さんとは2001年4月のリリースしたi-mode有料携帯公式サイト「iつりしん」の立ち上げからスマホ版のリリース、そして今まで、なんと気づけば18年間に渡っておつきあいをさせていただいており、弊社で最も古いお客様になります。
大井さんは元々今は無き北海タイムスという新聞社の記者で、タイムスが無くなった後つりしんに来られました。性格は一言でカンタンに言うと「ガンコ」です。恐らくそれは前職とも関係しているのだろうなと思います。そもそも物わかりの良い記者では良い記事は書けそうもありません。途中からつりしんの編集長に就任し長年にわたり指揮を執り、紙面を軌道に乗せた功労者です。
おつきあいが18年近くにもなると、当然ですが何もが常に順風満帆の訳もなく、やはり夫婦の間にもいろいろとあるように、我々の間にもいろいろとありました(夫婦じゃ無いけど)。年齢的には一回り以上僕の方が年下ですが、僕も結構な「ガンコ」なので、時としてかなりの激論になります。そんな時でも大井さんは常に自分の直感をとても大事にしており、「これはなんか違うな」と思った事については頑としてクビを縦に振りませんでした。時には企画の練り直しで20回近くも企画を出し直した事もあり、こちらが正直うんざり(失礼!)するくらいの事もありました。
しかし大井さんは大枠さえ納得できれば、細かい事はあまり言わないざっくりした大将的な性格で、しばしばそれがメールにも現れるのか、メールの本文の書き出しが
デジタル様
という社名をはしょった形だったり、さらには
デジタル
という書き出しの時もあり(ちなみに正式名はデジタルファーム)、「社名はしょってしかも呼び捨てだぞ、なんか身に覚えが無いけど怒ってるのかw??」と弊社内をざわつかせてくれたりもしました。勿論悪気は一切無く、「ああ、ごめんごめんw」と笑いながら謝る、一見するとぶっきらぼうなのですが、実際はとてもシャイでチャーミングな人です。偉ぶることも無く、また目立つ場に立つことを極力避けて生きて来た、そんな感じの人です。
大井さんのジャッジは常に「釣り人ファースト」、「読者のためになるか」で首尾一貫しており、その軸は絶対にブレませんでした。そして彼が素晴らしいのは、そのためには他を平気で犠牲にするかというとそんな事は全くなく、むしろその真逆でとても周囲に気配りする人だという事です。
新機能を追加する、となった時には必ず「それ、どれくらい現場スタッフに負荷かかるの?」と気にかけていましたし、我々のような外部のWebコンサルタントの事も常に気にかけてくれていました。やるといったWebサイトのリニューアルについては予算の大小はあるものの、必ず実施してくれました。散々提案したのに結局やらない、という事は絶対にありませんでした。今年は無いなと思ったときはあらかじめ「今年は予算ないから提案はいらなよ」と言ってくれました。「業者」を「業者扱い」すること無く、大切なパートナーとして扱ってくれたと思います。もしかすると単にデジファの田中は面倒臭いからと思っていた可能性もありますがw。
このメディア・プロジェクトを立ち上げからお手伝いさせていだだいている中で、数字で結果を叩き出してきたという自負は正直あります。「iつりしん」は当初「紙面の営業妨害」と言われ、まるで鬼っ子の様な扱い、四面楚歌で弊社は外様にもかかわらず散々いろいろと言われました。途中で風向きがガラッと変わり、今では事業の極めて強力な柱に育ちました。周囲の猛烈な反対を押し切り「紙はもうどうせ売れなくなるんだから、体力のある今のうちにやらないとな」と,弊社を最大限上手にご活用頂き(冥利に尽きます)、「iつりしん」立ち上げを強行した児玉 芳明社長(当時 後コンサドーレの社長に転身)の慧眼にはただただ感服するばかりです。ちなみにこれ言ったの 20年前ですよ。しかも当時紙面はすごい売れてました。言い出しっぺの児玉社長はタイミング的につりしんのリリースを待たずに退任する事になりました。間に合わなくてすいませんでした(今言う?)。
弊社の考え方の起点は、(使い物になるかどうかは関心無く)「言われたとおりにWebサイト制作しました、Webシステム開発しました」ではなく、「ユーザーが求めているこういうサービス、機能を作るべきだ」という「べき論」が中心にありました。そして大井さんを初め現場の方々は、みなそれを最大限尊重してくれました。時として「べき論」が強すぎる事もあったと思います。その点で僕は少しだけ(?)「生意気な業者」なので、普通ならすぐクビを切られるところです。実際「大人の事情」で切られかけたこともありますが(汗)、大井さんは「システムしか分からないような開発会社が担当しても、絶対に今のようなクオリティで企画から開発、運営までは出来ない。システムもコンテンツも両方ちゃんと分かっている会社じゃないと絶対無理」と徹底的にかばってくれました。
その逆に弊社から「もう辞めさせていただけませんか」とお願いした事もありましたが「iつりしんは田中さんで持ってるようなもんでしょ?そんな事言わずにやってくださいよ」とさすが年の功なセリフで慰留に努めてくれました。
私は大井さんとは長いおつきあいですが、18年間で一度しか呑みに行ったことがありません。また基本的に年に数回しか直接会う機会がありませんでした。機能強化のない年は一回も会わない事もありました。細く長く、そしてなぁなぁになる事も無く、それなりの緊張関係の中でお仕事をさせていただいだと思います。
後半は編集長をリタイアしたものの、諸般の事情で大分長く社内にとどまり、本来であればもっと早くリタイアする予定であったのが、今まで伸びに伸びていました。新型コロナウイルスのせいで送別会は無くなってしまいました。本人はシャイなので「そんなたいそうな事は別にしなくていいいよ」と言っていました。随分たいそうなお話しなのですが。。誌面の「週刊つりしん」そして「iつりしん」を育てた中興の祖は「卒業」後、公益財団法人 日本釣振興会 北海道支部のお仕事を引き続きする事になっています。
昨今、つりしん編集室では古株のスタッフの定年退職が続いており、若い優秀なスタッフの方がどんどん入社されています。これも時代の流れで、歴史はこうやって広葉樹の葉のように深みと厚みを持って、何層にも積み重ねられていくのでしょう。大井さんとは今後もどこかでお会いする事があるかも知れません。その際はどうぞ宜しくお願いします。そして18年間、今まで本当にありがとうございました。感謝の念に堪えません。四月以降、コロナが収まってきたら、一杯やりましょう。
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